西円寺だより

富山市にある浄土真宗のお寺・西円寺のブログです。

【お寺の掲示板】2021年1月の言葉

みなさんこんにちは。

朝の冷え込みは厳しいですが、積もっていた雪が少しづつ融けてきて、やっと日常が戻ってきた感じがします。

 

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門の前だけは雪かきをして人が通れるようになりました。腰が痛い…(泣)

 

さて、もう1月も下旬に入りましたが、やっと掲示法語を新しくしました。

 

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「念仏申さるべし」(蓮如上人 新年のあいさつ)

 蓮如上人御一代記聞書』に記された、本願寺中興の祖・蓮如上人の言葉です。

 

勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に御前へまゐりたるに、蓮如上人仰せられ候ふ。

道徳はいくつになるぞ。

道徳念仏申さるべし。

自力の念仏といふは、念仏おほく申して仏にまゐらせ、この申したる功徳にて仏のたすけたまはんずるやうにおもうてとなふるなり。

他力といふは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあづかるなり。

そののち念仏申すは、御たすけありたるありがたさありがたさと思ふこころをよろこびて、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すばかりなり。

されば他力とは他のちからといふこころなり。

この一念、臨終までとほりて往生するなりと仰せ候ふなり。

 

【現代語訳】勧修寺村の道徳が明応二年(1493年)の元日に蓮如上人の許へ新年の挨拶に伺ったところ、上人が仰った。

「道徳よ、今年で幾つになる。

道徳よ、念仏を申されよ。

念仏の中にも「自力による念仏」と「他力による念仏」がある。

自力とは、沢山のお念仏を阿弥陀様に捧げて、その念仏と引き換えに救ってもらおうという心を言う。

しかし阿弥陀様に我が身をお任せする心が起こったならば、その時すでに阿弥陀様に救われているのだ。

その上でお念仏を申すのは、阿弥陀様に救われていることの有難さを想い、喜びを味わうために“なむあみだぶつ、なむあみだぶつ”と申すのだ。

この我々を救う阿弥陀様の働きを他力と言い、ひとたび他力の救いに目覚めたなら、その喜びに包まれながら命を終えて、浄土に往生するのだ。」

 

道徳は蓮如上人の門弟の一人で、勧修寺村(現在の京都市山科区)にある西念寺の開基と伝えられています。

当時道徳は74歳、そして蓮如上人は79歳。

長年の法友であった道徳に蓮如上人が敢えて「幾つになった」と尋ねたのは、単純に年齢を確かめるためではなく、

親鸞聖人の御教えを聞き、お念仏を申す様になって何年になるか」

ということを問いかけたのではないでしょうか。

そしてそれに続く「念仏申さるべし」という言葉には、

「何年教えを聞きお念仏を称えても、“これでおしまい”ということは無い。今年一年もまた、お念仏を称えながら日々を過ごしなさい」

という蓮如上人の願いが込められている様に思います。

 

何故お念仏を称えるのかということについて、蓮如上人は「自力」と「他力」の対比によって明らかにされます。

「他力」という言葉は、現代では「自分の願いや目的のために他人を当てにする」という意味で使われることが多い様に思われますが、浄土真宗では「私達を救う阿弥陀様の働き」を指す言葉です。

 

他力の具体的な働きを、私がかつて学んだ大谷専修学院の狐野秀存先生は「大地」という言葉で表現されています。

 

大地があるから倒れることが出来るのです。

たしかに人前で倒れるのはみっともないですし、恥ずかしいことです。

穴があったら入りたくなります。

しかし、大地がなければ、倒れることもできないのです。

どんなに情けないことであろうとも、みじめな自分であろうとも、その自分をそのままに受けとめる大地があってはじめて、あっ痛い、まいったなと言って倒れることができるのです。

もし大地というものが信頼できなかったら、その失敗した、負けた自分を許せずに、宙に浮かんだ怨念に取り憑かれて悶絶してしまいます。

竹中先生(※)は如来の本願の心を「えらばず、きらわず、みすてず」と表現されました。

どんな者も「えらばず、きらわず、みすてず」の本願の大地があるから、たとえ倒れても、しばらくはおろおろしなければなりませんが、そこからまた気を取り直して、その本願の大地の上に立ち上がっていくことができるのです。

(狐野秀存『往生浄土の道』東本願寺出版)

※竹中先生…竹中智秀先生(1932~2006)。1959年から大谷専修学院の職員を務め、学院長として在職中に逝去。

 

 「一年の計は元旦にあり」と言いますが、新しい年を迎えるにあたって

「今年はこういう一年にしたい」

「今年はこういう事を新しく始めたい」

と言った目標を立てた方は多いのではないでしょうか。

その願いが叶う様にと、お寺やお内仏の前で仏様に祈願した方もおられるかもしれません。

 

しかし阿弥陀様の働き、すなわち“他力”は、「私の願いが叶う」ということよりも遥かに大きなご利益を、私達が願うよりも前から与えてくださっています。

私達は困難に直面して思い通りに生きられなかったり、他人に迷惑を掛けたり恥をかいたりすると、自分の居場所が無くなった様に感じたり、自分の人生に価値が無いと感じることが、あるのではないでしょうか。

そんな時に阿弥陀様は

「あなたがあなたであることに変わりはないじゃないか。あなたの居場所はここにあるじゃないか」

と呼びかけて、大地の様にいつでも私の人生を受け止めてくださるのです。

これが他力の御利益であります。

 

コロナ禍を始め様々な問題が山積して先の見えない一年ではありますが、

「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」

と焦ることなく、

「どうせ何をやっても無駄だ」

という虚無感に沈むことなく、大地の如く私を支える他力の呼び声を信頼して、

如来の摂取不捨(えらばず、きらわず、みすてず)の心を学び、自分自身のしたいこと、しなければならないこと、できることを、他人とくらべず、あせらず、あきらめず、していこう」(竹中先生の言葉)

という意欲を持って生活していきたいと思います。