【書籍の紹介】一楽真『釈尊の呼びかけを聞く 阿弥陀経入門』
みなさんこんにちは。
ここ数日暖かい日が続いていましたが、今日の夕方から再び雪が降ってきました。
天気予報では「例年にない大雪になる可能性がある」と言っています。
お正月の準備や買い物で外に出る機会も多いと思いますので、事故や転倒に十分お気を付けください。
今回は、最近読んだ本を紹介させて頂きます。
この本は本山が発行する『同朋新聞』に連載された、一楽真先生(大谷大学教授)による『阿弥陀経』の解説を書籍化したものです。
『阿弥陀経』と言えばご法事の際に必ず読まれるので、ご門徒の皆さんにも馴染みのあるお経だと思います。
意味が分からなくても繰り返し出てくる「しゃーりーほー」という言葉や
「にゃくいちにちにゃくにーにちにゃくさんにち…」
「こうじょくけんじょくぼんのうじょく…」
と言ったフレーズに聞き覚えのある方は多いのではないでしょうか。
本書の中で特に感銘を受けた箇所を紹介しながら、『阿弥陀経』の内容を解説させて頂きます。
【「阿弥陀」と「極楽」】
一楽先生はまず、阿弥陀仏には「無量寿(量ることの出来ないいのち)」と「無量光(量るという事を超えている世界を照らし出す光)」という二つのはたらきがあること、そしてその阿弥陀仏が説法をされている世界が「“極楽”(あらゆる苦しみの無い)浄土」と呼ばれるのだという、阿弥陀経の主題となる教えを明らかにされます。
阿弥陀仏の世界を知らないと、人間は自分の思いを中心に量っていくことをやめられません。
人に対しても、すぐに役に立つか立たないかを基準に見てしまいます。
しまいには、生きている価値が有るか無いかとまで言い出します。
そうやって、人を量るだけでなく自分も量ることで、人を傷つけ、自分も傷ついているのではないでしょうか。
そんな私たちに、比べられない世界があることを知っているかと、釈尊は呼びかけているのです。
(34頁)
【七宝の世界】
『阿弥陀経』の中で、極楽浄土は七宝(金銀、珊瑚、宝石)によって余す所なく飾られた世界と説かれています。
多くの人が「嘘くさいな」と思うのではないでしょうか。
或いは価値観が多様化している現代では「まぁ悪くはないけど、退屈そうな世界だな」と感じる人もいるかもしれません。
この部分から私達は何を学べばよいのでしょうか。
極楽世界を語る際には、金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲・赤珠・瑪瑙といった七宝が出てきます。
しかし、これは決して豪華なものがあるということを言いたいわけではありません。
一言で言うならば、すべてが宝物だということです。
人間はどうしても高いか安いかという値段で見る癖がついています。
その見方によって、価値のあるものと、価値のないものを瞬時に判断しながら生きているのが、日ごろの生活です。
しかし、仏の眼からは、すべての存在にそれぞれの価値があるのです。
さらに言えば、人間の価値判断では量ることの出来ないような存在の重さがあるのです。
(40・41頁)
強さ・豊かさ・賢さ・美しさといった色々な物差しで、他人も自分自身も値踏みする私達に、決して量ることも比べることも出来ない尊さがあるということが、極楽浄土に響き渡る阿弥陀仏の説法によって明らかにされるのです。
そのことが七宝を象徴として説かれているのです。
【名号によって開かれる浄土】
極楽浄土は「量ることも比べることも出来ないいのちが明らかになる世界」「“比べる”ということから解放される世界」であるという事が繰り返し説かれています。
では日頃「量る」「比べる」という事から離れられない私達が、どうすれば極楽浄土に生まれることが出来るのでしょうか。
『阿弥陀経』には
「命終える時まで阿弥陀仏の名号を執持する(称名念仏する)ことで極楽浄土に生まれる」
と説かれています。
人間の役に立つとか立たないという価値づけを超えた世界が阿弥陀仏の極楽世界なのです。
ですから、その国に生まれるためには、人間の能力や努力の度合い、これまでの経歴などは、一切問われることはありません。
(中略)
称名念仏は誰においても、どんな状況でもできます。阿弥陀仏の名をとおして、比べる必要のない阿弥陀仏の世界をいつでも思い出すことが出来るのです。
(中略)
命ある限り、阿弥陀仏の名を通して、阿弥陀仏の世界を頂き続けていく。
それが「執持名号」と教えられているのです。
そこには、分別やとらわれを離れ続けていく生活が与えられます。
臨終に至るまで人生の方向を見失わない生き方だと言ってよいでしょう。
(71~73頁)
極楽浄土の在り様とそこに至る方法である念仏を説いたお釈迦様は、この世界だけでなくあらゆる世界の諸仏も自分と同じく阿弥陀仏とその浄土を誉め称えておられること、この説法を聞き信じる人々があらゆる諸仏に守られ必ず極楽浄土に生まれることを説いて、その説法を終えられます。
【読み終えて】
『阿弥陀経』の現代語訳は知識として知っていたので、普段「ここにはこういう事が書かれてるんだな」という事を考えながらお勤めしているのですが、その内容を大切な教えとして受け止められない、もっとハッキリ言えば「信じられない」という事に悩んでいました。
しかしこの本を読んで「なるほど、『阿弥陀経』にはこんな大事な事が書いてあったんだ!」と、今更ながら気付かされました。
『阿弥陀経』には一見すると荒唐無稽と思える様な記述が幾つも出てきますが、そこには自他共に優劣を比べ、お互いを傷付け貶め合う私達への
「お互いに量ることも比べることも出来ない尊い人生を生きている。そのことに気付いて欲しい」
という、全ての仏様の願いが込められていたのです。
皆さんもこの本を読むことで、ご法事で聞く『阿弥陀経』に対する印象が変わるかもしれません。
【本山より】お煤払いが行われました。
みなさんこんにちは。
長らく雪やみぞれの降る日が続いていましたが、月曜から晴れたお陰で道路の雪も大分融けたように思います。
さて、去る12月20日に京都の本山において「お煤払い」が行われました。
1000枚以上ある阿弥陀堂と御影堂の畳を竹の棒で叩き、舞い上がった煤や埃を大きな団扇で外へ追い出す様子はニュースでご覧になった方も多いのではないでしょうか。
私も本山の職員として、5年間お煤払いに携わらせて頂きました。
2か月前からタイムスケジュールの作成、関係各所との打ち合わせをして、本番では掃除道具を運び、「あっちが人足りないんで加勢お願いしまーす!」と叫び、数百枚の雑巾を洗って絞る…
当時はしんどくて、前夜お煤払いの夢にうなされたこともありましたが、毎年数万人の方が親鸞聖人に会いに来られる「真宗門徒の家」を、自分達で綺麗にしようという熱意を持った多くのご門徒さんとお会い出来たことは、得難い体験でした。
今年はコロナウイルス対策のために竹棒で叩く作業は中止したそうですが、例年通りお煤払いが出来て安心しました。
毎年お煤払いの際には、境内の「同朋会館」に宿泊して、親鸞聖人の教えに触れながらお煤払いに参加する「真宗本廟お煤払い奉仕団」を募集しています。
興味のある方は同朋会館(075-371-9185)にお問い合わせください。
【若院の活動】法話を掲載して頂きました。
みなさんこんにちは。
西円寺が所属する真宗大谷派には、子ども・青年層とお寺の橋渡しをする「青少幼年センター」という機関があります。
このたび、「若者向け法話集 ~50のストーリー~」という企画に参加させて頂き、私の書いた法話が掲載されました。
今年の春に京都から富山に移住し、コロナ禍も重なって慣れない生活に身も心も疲れ果てていた時に、かつて読んだ『歎異抄』の言葉に助けられた体験を文章にしました。
改めて読み返してみると「なんか気恥ずかしいな(・_・;)」という思いもありますが、「自分が嫌になった、消えてしまいたい」という悩みを抱えている人に、「あぁ、こういう人もおるんやな」というのが伝われば有難いです。
他の方の法話もそれぞれの悩みや仏教への思いが綴られていて読み応えがありますし、これからも増えていく予定ですので、ぜひチェックしてみてください。
【お寺の掲示板】2020年12月のことば
みなさんこんにちは。
今回は西円寺で行っている掲示伝道について紹介いたします。
塀の上から顔を覗かせている大きな掲示板には、富山教区が発行している法語ポスターを掲示しています。
「老病死を見て世の非常を悟る」(『仏説無量寿経』)
「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき」(親鸞聖人『高僧和讃』)
「人間は偉いものではない 尊いものです」(安田理深)
そして門前には、若院が書いた言葉を掲示しています。
「なんにも取り柄がない人間がただ生きていても、なんにも責められない社会というのが正常です」(山田ルイ53世)
ワイングラスを片手に「ルネッサーンス!」と陽気に叫ぶギャグで有名になったお笑いコンビ・髭男爵。
そのメンバーでシルクハットがトレードマークの山田ルイ53世さんが、自身の引きこもり体験について語った読売新聞のインタビュー(2016年6月2日朝刊)から引用させて頂きました。
中学2年生の時にある出来事がきっかけで引きこもりになってしまった山田さん。
最初は「とりあえず1週間だけ」と思っていたものの、有名な私立中学に通い近所では「神童」と言われていただけに、周囲への劣等感から中々学校に戻ることが出来ず、引きこもり生活は6年間に及びました。
“ 社会復帰を考えても、自分が最高潮だったとき思い描いた将来は絶対に無理だと思い、また落ち込む。自分を許してあげられなかった、あきらめてあげられなかったのが、苦しむ原因になりました ”
(インタビューより)
20歳の時にニュースで成人式に出ている同世代の姿を見て一念発起し、愛媛大学の夜間コースに入学。
その後大学を中退して上京、髭男爵を結成しました。
山田さんは引きこもっていた6年間について
「ムダやった」
と振り返っています。
しかし同時に
「そのムダが許せないのが一番問題なのかなと思う」
と語っています。
“ みんながキラキラしてないとだめだっていうのはウソです。みんなが輝かしいゴールを切れるわけでもないのに、「みんなそうなろう」という風潮がありすぎる。
なんにも取り柄がない人間がただ生きていても、なんにも責められへん社会、いうのが正常です ”
(インタビューより)
私はこの言葉を見た時に、「これってお浄土のことじゃないか!」と思いました。
お浄土はあらゆる人に開かれた、あらゆる人に居場所が与えられる世界です。
自分の理想を実現できずに劣等感に沈んでいる人も、世間から「役立たず」とレッテルを貼られて爪弾きにされている人も、見捨てずに受け入れる世界です。
そして親鸞聖人はお浄土とは単なる理想郷ではなく、阿弥陀如来の智慧によって形作られた「真実の世界」であると、繰り返し説かれています。
逆に組織や社会の中で役に立つ人、自分の叶えたい夢を実現できる人が「勝ち組・成功者」と持て囃され、それが出来なければ見放される様な私達の在り様に対して、
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなき」
(『歎異抄』)
と説いておられます。
そして、この世界に満ち溢れている
「優れた人間になれ、人が羨む人生を送れ、そうでないと生きる価値がないぞ」
という嘘偽りに振り回されることなく、
「私には帰るべき世界、待っていてくださる仏様がおられるのだ」
と信じて、仏様の名「なむあみだぶつ」を呼び続ける人生を送るように私達に伝えてくださったのです。
長く辛い引きこもりの経験から、
「挫折してもいいんだ、キラキラと生きる必要なんてないんだ」
と、のびのびとした人生観に達した山田さん。
その言葉を通して、あらためてお念仏の教えを味わわせて頂いたことであります。